2019.11.15ブログ
貴重な体験(担当:石神)
週末に書庫を整理していたら、懐かしいクリシュナムルティの書籍が幾つか見つかりました。
管理が悪かったために紙面も黄色く変色していましたが、その中の一冊を手に取り、紙面に目をやりました。
ところどころに色鉛筆で線が引かれていました。これはもう売り物にはならないなと思いながら、マーキングされたところに関心を寄せながら、読んでみました。
冒頭からこのような書き出しで始まっていました。「人間はいつの時代でも、自分自身を超えたもの、物質的幸福以上のもの、われわれが真理と呼んだり、神または真実と呼んだりする人間を超越したものを求め、環境や思想もしくは、人間の堕落によって妨げることのないものを探求している。」
人間はいつでも自らにこう問いかけるのである。すなわち、「われわれは、はたして何を求めているのだろうか」「人生には何の意味があるのだろうか」と。また、「生きるとは一体どういうことなのか」、「もっと大事なことが他にあるのではないか」といった苦悩に満ちた問いを発するのである。~」と。
その時、わたしの脳裏をかすめたものは、20代後半から30代前半にかけて、仕事について悩み、現状には常に不満足を抱いていた頃のことでした。今振り返ってみると、懐かしい気分に浸れますが、その頃は常に人生に焦りのようなものを感じていて、心は落ち着いていませんでした。
「私は何を求めているのか?」「どうなれば満足いくのか?」「本当にやりたいことは何なのか?」を自分に問うてみるのですが、自分自身の願望すら分からない自分に驚いたことを今でもはっきりと覚えています。自分が自分の心を分からないなんて不思議でたまりませんでした。
そして、32歳の時にコンサルティング会社を辞め、一年間自分を見つめてみようと決心しました。自分の心に問いかけることが一番だと感じ、自分なりの瞑想を32歳の4月から始めてみました。4月、5月、6月と何も変化のない日々になりました。瞑想と言っても四六時中しているわけではありませんから、お昼にうたた寝をすることもあったのでしょう。
当時幼稚園児だった娘の絵日記に、「パパはお昼寝しています。ママはお洗濯しています。」と可愛い絵と共につたない文章が添えられていたことに胸がつまり、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
でも、自分がどうしたいのか、どうすれば良いのか、まださっぱり分かりませんでした。
暗中模索という言葉がありますが、全く持って自分自身の中に志のようなものは感じていても、その生かし方そのものが観えてこないのです。
7月も過ぎ8月も過ぎ、秋の気配を感じる頃、自分の静まった心から次第に自分の心をありのままに受け入れる意識が芽生え、自分が何を求めていたか、納得しない自分が何者であったかも素直に理解していくことに変化していきました。
仕事柄、「自己理解、自己受容、自己変容」など仕事上で取り上げることはありましたが、自分が自分を受け入れることを本当の意味で実感した喜びは生涯忘れられない体験になりました。
年明けとともに、今の仕事に戻ることができましたが、あの体験依頼、私も含め、誰もがかけがえのない「存在そのもの」を尊べる人生であって欲しいと願うようになりました。
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