2020.06.05ブログ
『人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)』(担当:石神)
これは、昔、中国の北辺の塞(とりで)のそばに住んでいた老人の話です。
塞翁(さいおう)とは、塞(とりで)に住む翁(老人)のことで、その老人が飼っていた馬が胡(こ)の地に逃げてしまいました。しかし、数か月後、その逃げた馬が胡の駿馬(しゅんめ:優れた馬)を連れて帰って来ました。が、その数か月後、その老人の息子がその馬から落ちて足を折ってしまいました。しかし、そのおかげで息子は兵役を免れて命が助かったという、何が幸いするか分からないという面白い話です。
「万事塞翁が馬」は、2000年以上も昔に中国で作られた話らしいです。この話は教訓めいており、いつの時代に生きる人にも通じるものがあります。一寸先も見通せない人生の中で、目の前の状況に一喜一憂することなく、大局的な観点から物事を捉えて、生きていくことの大切さを教えてくれています。
2000年前というと有名な三国志(魏、呉、蜀)が描かれた時代の200年ほどさかのぼった時代ですから、漢王朝の時代の書かれた話となります。まさに戦国時代であり、多くの民は幸不幸が入り混じった、今より遥かに不安定な時代に生きていたのでしょう。
そんな混沌とした世の中で、「人生における幸不幸は予測しがたい。不幸が幸せにいつ転じるか分からないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではない。」と達観したたとえ話が存在していたんですね。
あの当時の民衆は、生というものをどのように捉えていたのでしよう。幸せというものをどのように捉えていたのでしょうか。
国取りに心を奪われた為政者の下で、繰り返される略奪と破壊、暴力、貧困と餓死が隣り合わせの生活、不衛生な環境から蔓延する疫病、多くのの民衆が字の読み書きもできない暮らしの中で、どのように自分たちの生活に喜びを見い出していたのでしょうか。
そのような時代にも、大自然の営みと人間のささやかな生活の中に、生命の意志と調和の働きを感じ取っていたのかもしれません。
日本は物質面では、世界に類を見ないほどの恵まれた国です。
しかし、マザーテレサは、来日するたびに、日本ならびに物質的環境に恵まれた先進諸国は、「愛に飢えている、愛の飢餓状態にある」と話されていました。
私たちは、ものや経済に翻弄され、生命の輝きを忘れているのでしょう。
「今ある自分の存在」に感謝できなくなってしまった人があまりにも多いように感じます。
今回の疫病は全世界に広がり、全人類がその不自由さを同時に体験しています。
単なる国と国との小競り合いや、第二次世界大戦のような大きな戦争であっても、全世界を同時に巻き込み、全世界の人々に等しく心の痛みや行動の不自由さを感じさることはありませんでした。
今回の疫病の蔓延については、その人の置かれた立場によって、様々な考えや解釈または受留め方はあるでしょう。
経済活動が止められ、家に待機せざるを得なくなった私たちに、時間がどのように作用したのでしょうか。自分のこの静かで精妙な意識空間で何を思い、何を感じたのでしょうか。
そこに現れた心の状態(気分、感情)こそが、自分自身を見つめる上で、非常に大切な機会になっていると感じます。
私たちは、ただ物質的な苦しみだけを嘆くのではなく、私たち一人ひとりの心の気づきを通して、真理に立ち帰る機会に恵まれたのだと感じています。
「人間万事塞翁が馬」の故事を思い出し、人間社会に起こる様々な欲望を正見しながら、自然と一体である本来の自分(生命)を自覚することにつとめたいものです。
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