2021.04.01ブログ
ゼロという状態の不思議(担当:石神)
3月は、春分の日を迎える月でした。
春分の日と秋分の日は、1年のうちで昼と夜の長さがほぼ同じになることから、仏教では、いつの時代からか、太陽が昇る東に「此岸(しがん)」、沈んでく西に「彼岸(ひがん)」があると伝えられて来たようです。
つまり、1年で此の岸(このきし)と彼の岸(かのきし)とが最も近づく日ということで、先祖との交信ができる日と考えたのでしょう。
一方、宇宙の生命エネルギーに関心を寄せている人たちからすると、この昼と夜の長さ、時間が同じになるということは、極めて重要なことを秘めていると話します。
生命エネルギーがプラス・マイナス=ゼロになる状態は、エネルギーが最も安定していて、調和された状態ですから、ものごとを創造する純粋起点なのだと捉えています。
生命エネルギーに関心にある方が私に語ってくれて内容を要約すると、
「私たちの肉体生命を維持するには呼吸をしなければなりません。また、食事を通して体内にエネルギーを補充しなければなりません。その時、呼吸も吸ったら吐く、吐いたら吸うという行為をします。また、食べたら出す、出したら食べるということを行います。
もし、呼吸も吸うだけで吐かなかったら身体に変調を来たし、生存できません。吸ったら吐くという行為、つまりゼロにすることにより、身体には新たなエネルギーが注入され、調和されるのです。
食事でも食べるだけで、入れたものを出さなかったら身体に変調を来たします。入れたら出すという行為、つまりゼロ状態に戻すことによって、新たなエネルギーを受け入れ、創造活動に繋がるのだということです。
お金もため込むだけで出さなければ、エネルギーの循環過程に支障を来たし、運命的にも精神的も変調を来たし、こだわりが強く、狭い人生を送る人が多いのだと語っていました。お金も呼吸や食事と同じように使わないと入って来ないということになります。
エネルギーの創造活動の起点はゼロポイントが重要なのだということです。
また、家をゴミ屋敷のようにしてしまう人も、入れたら出し、できるだけゼロの状態(余分なものを捨て、綺麗にする状態)を作らなければ生命エネルギーの創造活動が停止してしまい、不健康で不幸せな感情を抱くことになるのだということです。
基本は入ったものは出す、得たものは失くす(他者に与える)ということで、セットになっているんだと力説していました。だから、モノを溜め込むだけ、モノに取り囲まれた生活は、エネルギーの循環が為されていないため、生命エネルギー活動が不十分だということになるのでしょう。
滞るとモノは浮かばれないし、モノを取り込むだけでは、モノからのエネルギーを奪うことだけになり、ひいては自分のエネルギーも奪われていることになります。そのような関係は、調和された関係ではなく、お互いのエネルギーが奪われていく関係になります。入りと出の関係はすべてセットになっています。
その人は一人で暮らしている時でも、家を出る時は、「行ってきます」と玄関口で声を出し、帰宅したら「ただいま」ということで完結しているのだと言います。そういう人は、ゴミ屋敷に住むことはありません。これはエネルギーが創出される「ゼロの法則」にかなっているのだと話されていました。皆さんはどう感じられたでしょうか。
以前、このような言葉を見つけ、自分の手帳にメモしたことがありました。「空を飛ぶ鳥は、地上に倉をつくることをしない。地上の動物も、その日の生活に満足している。明日の糧を求めて、相争うのは人間だけだ。鳥や動物は、その日の糧で生き永らえている。人は明日の糧を求めて死を急ぐ。人間よ!眼を
ひらけ!」
常にゼロに戻すことが、生命エネルギーの安定した状態であるなら、心に余分なものは溜めない方が幸せな生き方が出来ると感じました。これを私は「ゼロの奇跡」と呼んでみたいです。
シェアする