2021.04.15ブログ
言葉の持つエネルギー(担当:石神)
巷でよく耳にする言葉に、「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉があります。
語呂がいいので、すぐ覚えてしまいました。誰かがシニカル(冷笑的)に捉えた世相の表現が、仲間内で共感を呼び、巷で語られるようになったのでしょう。
この言葉には、どこか無力感が漂い、人の心を明るくしたり、喜びを喚起する力ではありませんね。
この人の発した言葉の奥には、不満という想念があるからです。
仏教には「正語」という大切な教えがありますが、自分の心の中に不平や不満、批判的な気持ちがあると、相手にその毒を蒔いてしまうことになります。
そのようなシニカルな言葉を冗談めかして言っていると、やがて自分の心にそのような傾向性を帯びた想念が作られてしまいます。
日常、冗談交じりの話をしてしまいがちな私も、心しなければならないと感じました。
部分的、断片的にしか捉えられない状況にありながらも、人から聞いた話を鵜呑みにして、知らず知らずの内に自分の期待や願望を付け加えて、会話をしてしまうことは私たちの社会ではよくあることです。
兎角、たわいもないうわさ話や興味本位の世間話にも、話し手、聞き手の双方に不平、不満の感情を誘発させ、心を曇らせてしまうことがあります。
その会話の後に、何となく後味の悪い感じが残るのもそのせいです。
私たちが思う、想うという行為には、ものごとを現象化させるエネルギーがあります。強く願う、真剣な祈りには、ものごとを叶える力もあります。
つまり、この世の中で思わなかったもの、想像できないものは一つも現れてはいません。
そのようなことを考えてみると、お互いが元気になったり、笑みがこぼれるような会話に心がけたいなと思います。
流行り言葉でも、否定的な言葉を無意識に常用していると、本来の明るく丸い心にひずみをつくることになるかもしれません。心したいものです。
以前このような言葉が目に入り、自分の手帳に書き留めたことがありました。
「すべての出発は、心にある、想念にある。想念はその人の行動を束縛し、必ずその行為の結果はその本人に返っていく。我があり、期待があり、望みがあり、執着があり、損得がある間は、その心ではない。幼子のような、雲ひとつない無我の青空こそ、己の心である。」
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