2021.05.28ブログ
庭掃除を縁にして(担当:石神)
5月のゴールデンウィークは、コロナ感染対策で緊急事態宣言が出ておりましたから、どこへ出かけることもなく家の中の掃除や庭の伸びた木々の枝を刈り込んだり、足元にのびた雑草などを抜き取ったりして過ごしました。
かがんで作業していると、普段は気にもとめていない雑草と呼ばれている植物にも可憐な花をつけています。みんな生命の喜びを感じてここに生えているのだと思い、今花を咲かせているものだけは刈り取ることなく残しておきました。
そんな時、聖書に記されている言葉を思い出しました。
「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って下さる。まして、あなたがたはなおさらのことではないか~。だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と思い悩むな~。」
庭掃除の後の満足感と聖書の言葉が相まって、何か心が洗われた感じがしました。そして、その日は清々しい気持ちで過ごせました。
ある講演で「すでに在るというしあわせ」というテーマで話したことがありました。
それから数日して、お釈迦様が「繋宝珠(けいほうじゅ)の譬(たとえ」」を話されて、多くの人々に自分の中に素晴らしい宝石(慈悲と愛の心)のあることをお伝えになったことを知りました。
皆さんはこういう経験をしたことがありませんか。
店で品物を選んで、お金を払おうと思って財布を探したら、財布が見当たらないという経験です。
仕方がないので購入をあきらめて家に戻り、もう一度かばんの中を隈なく探したら、他のものと紛れて隅っこに隠れていました。別に隠れていたわけではないのですが、見つけられなかったのです。
実際にお金は持っていても、欲しいものは手に入らなかったのです。
自分の内側に幸せの宝庫があっても「ある」ということを自覚していなければ「ない」のと同じことになります。
法華経の中にも次のようなお釈迦様のたとえ話があります。
「ある時に、あるお金持ちがどこかへ用事があって、出かけようと思って家を出ると、そこへ旧知の友が向こうからやって来るではありませんか。よく見ると、みすぼらしい身なりで、顔は赤だらけで、もう何日も食べていないような憔悴した姿です。「君どうしている?」と声をかけると、「いや、どうも働く所がなくて困っている」と言うのです。「わしは今ちょっと用事があって出かけるところだけれど」と言ったものの、友のそのみすぼらしい姿を見ていると、ほっておけないような気がして、「わしの所へ来たまえ。久しぶりに一緒に飯でも食おうじゃないか」と言って友を招き入れました。
ごちそうを並べて二人で食事をし、お酒も吞みました。旧友は十日も食べてないところへ、たらふく美酒をあおったので、急に酔っぱらって寝てしまいました。やがてそのお金持ちは用事あって出かけなければならない時刻がきたので、友を起こそうと思って、身体を強く揺り動かしたけれど、なかなか起きてくれません。
しかたがないので、その友だちの着物の衿の中へ価値がつけられないほどの貴重な宝石(宝珠)を縫い付けて出かけて行きました。目を覚ました旧友は、それに気づかずにその金持ちの家を出ました。また、以前のように衣食を求めて、諸国を放浪し、一日を食いつなぐ困窮した生活を続けていました。
その後、そのお金持ちの親友と再会して、衣の裏に縫い付けてある宝珠(宝石)のことを知らされました。
酔いがさめても、その真実を知らないから、本人は折角立派な宝石を持っていても、持っていないと思って貧しい生活を続けていたという「繋宝珠(けいほうじゅ)のたとえ話です。
持っていても、持っているということに気づかなければ、しあわせを掴むことはできません。
私たちもどんなに素晴らしい慈愛の心を持っていても、そのような存在であるということに気づかなければ、その心を生かすことはできません。お釈迦様はこのたとえ話を通して私たちの心の中には、価値がつけられないほどの貴重な宝石(仏性)のあることをお伝えになったのでしょう。
先ほどの聖書の言葉は2000年前、このたとえ話は2500年前の話です。このように私たちにとって大切な心のあり方について語られている人間の歴史は素晴らしいのひとことです。
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