2022.07.28ブログ
哀悼の意
7月8日、奈良市内で起きた事件の山上哲也氏を迷子(不幸)にさせたのは、他でもない、自分自身の偏った思考やそれに伴う感情なのです。自分を迷子(不幸)にしているのは、出来事に対する自分の偏った解釈にあります。
私たち一人ひとりは、「今、自分がこうして捉えている思いやその考えが自分を迷子にしているんだ」という気づきによって、思考と一体になっている感情や習慣から抜け出す努力を怠ってはいけないのだと、強く意識させられる事件でした。
日常では、ついそのような意識が影を潜め、「なんでこうも雨が続くんだ。朝から憂鬱な気分になってしまう」「こんなことが起こっているのに、なぜ電話一本してこないんだ!」「なぜ、彼はそんな言い方しかできないんだ。」などなど、自分本位な思考や感情を野放しにしています。
私たちは、自分にも他者にも自分本位な思考や感情をあまり意識することなく呟いたりします。
私も恥ずかしいことにテレビを観ている時、その体験を繰り返していることがあります。
歌があまり上手くない歌手や年を取って音程が怪しくなった歌手には、もう引退した方がいいんじゃないかとか、自分勝手な思考や感情を抱き、つい呟いています(笑)
心の歪み(非難、中傷)は、状況に対して、自分の思考が「好ましくない」「不愉快だ」などのイメージを抱くと瞬時に活動を始めます。
不平や不満のようなマイナス感情を抱かせるのは、自我の根強い習慣ですが、その習慣に気づくことで「わたしという主体」の存在は変わってくるものです。
電車に乗り遅れても、不注意で衣類に飲み物をこぼしてしまっても、角で頭をぶつけても、「ついてない」「今日は最悪だ」などと色付けせずに、今の瞬間の「そうである状態」をそのまま受け入れていればいいのです。そこには何の意味もないのですから。色付け、レッテル貼りは自己本位な自我の得意技です。
演奏中にギターの弦が切れてもゲン?(このゲンは弦ではなく験ですね)が悪いと決め付けずに、「ありのまま」に放っておくだけで、波は去って自然のリズムに戻っていきます。
状況に対して「こうあるべきだ」という自分の頑なな思考が心を波立たせるだけで、その習慣(思いグセ)が解かれれば、心は安らぎ、あらゆることに験を担ぐような不自由な生き方から解放されていきます。
心の静寂を失うと「本当の自分」とのつながりを失ってしまいます。道半ばで凶弾に倒れられた元総理に哀悼の意を表すととともに事件を起こしてしまった山上哲也氏にも自分を迷子させてしまった、憎しみという心の歪みに気づき、本来の心を取り戻して欲しいと願うばかりです。
憎しみと愛は共存できないのですから。
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