2022.07.28ブログ
心のハインリッヒの法則
アメリカの損保会社の統計係に勤務していたウィリアム・ハインリッヒという人が、労働災害における一つの重大事故の背景にはそれに関係した29の現象化した事象があり、またその背後には認識を怠りやすい300の異常(ヒヤリハットの現象)が存在しているという説を唱えました。これをハインリッヒの法則と呼んでいます。
私は30代前半まで、悩みの多い生活をしておりました。そんなある日、ある方から「生まれてから現時点まで、自分の思ったこと、行ったことを振り返ってみたら?」と言われました。
悩み深き若者でしたから、さっそく言われるがままに自分のための時間を取り、自分が歩んで来た30年ほどの人生を振り返ってみました。最初の頃は、なかなか心も落ち着かず、振り返りも散漫な様相を呈していました。先ず大きな石や岩のように心の中にころがっている印象深い出来事などを手掛かりに、その時に感じたこと、思ったことを見つめてみました。
「こんなこともあった」、「あんなこともあった」など、振り返えって行く過程で、自分の心の歪み(自己本位な思考や感情)が浮き出てきたのを鮮明に覚えています。
そこに登場する人物は、両親、兄弟、友人、先輩、学校の先生など大勢の出演者がいて、自分の物語が構成されていました。面白いことに当時の自分を第三者として、今の自分が見ているわけです。
その次には、小石や砂利のような小さな思い出を注意深く探しながら進めて行きました。
その当時の自分の状況や背景、そこで感じたこと、考えたことをつぶさに観察して行きました。不思議にも、楽しかったことや嬉しかったことは、自分が作り上げた物語には、あまり関心がありませんでした。もっぱら、自分が傷ついたと思えること、悔やんでいること、理解して欲しかったことなどに集中していきました。そのような振り返りを続けて行くうちに、ふと、ここに登場している人達はどのように私を見ていたのだろうか?どんな気持ちでこの瞬間を過ごしたのだろうか?という気持ちがよぎってきました。
そして被害者だと思っていた自分が、おぞましい加害者ではなかったのか、周囲の人達に気を配ることもなく、自分のことだけを、自分の立場だけを、自分の論理や気持ちだけを押し通していただけの人生ではなかったのか、などなどの悔恨の感情が自分の心に押し寄せてきました。。今まで意識にはのぼることのなかった自分の姿を見ることになっていきました。
心の点検が進み、自分の心を暗くしていた様々な要因が理解されてくると、今度はさらに小石や砂利の影に隠れている小さなゴミや埃のようなものまでも見つけ出したいという意欲が湧いて来ました。それを1つひとつ丁寧に観察してみると、このような塵や芥(あくた)のような心の陰りの集積が心の歪みの一因であったのだと得心が行きました。
そのような心の体験は、自分の心の中に潜む苦しみの原因が明らかになるにつれて、心は見違えるように軽く晴れやかになってきました。心が軽いということはこういう事なんだ、もし気分に足が付いていたら、満面の笑みを浮かべてスキップしているような感覚でした。心が安らぐということはこういう状態をいうのか、という体験は今でも忘れることはできません。
この自分に対する心の点検を思い出すと、まさにハインリッヒの法則のように災いや不祥事を起こすまでには、ヒヤリとしたり、ハットするようなほんの些細な歪みが心の中に蓄積されていっているんだな~と感じてしまいます。
その時は、自分がチラッと意識していても、周囲の環境や社会通念からこれぐらいは良しとしてしまうこともあります。その些細な歪みの積み重ねが、対人関係や仕事に軋轢を生むような土壌を作っていることにもその時点では気づいていないのが迷子(不幸)の始まりです。気づかぬうちに、ハインリッヒのいう29個の軽微な現象として現われ始めるのでしょう。大抵の人はこの時点で、自分がどこかおかしいのではないかと気づくのだと思います。周りの人もちょっと難しい人、ちょっと厄介な人のように捉えていますが、当の本人に自己を振り返る機会がないと、周りが悪い、社会が悪いと捉えて益々心の柔軟性や共感性を失ってゆくのでしょう。
やがて、本人にはあずかり知らないと思える災難に直面することになります。そして、「これはわたしのせいじゃない!」と叫ぶのかもしれません。
一瞬一瞬の無自覚な300程度の愛の欠如がやがてはこのような結果に至るのだという因果律が成立しているのです。
自分が物語を作って、無意識に演じてしまう心の世界では、時間と空間の中でものごとが良きにつけ悪しきにつけ進展します。逆も真なりで、安らぎの多い豊かな心もハインリッヒの法則に即しています。心したいものです。
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